昭和44年8月16日 夜
恩取次ぎを頂いて、起きてくる事は、良い事でも悪い事でも皆良いと。恩取次ぎ頂かずして、起きてくる事は良い事でも悪い事でも皆悪い。もうこれは、恩取次ぎの御比礼をよくするということについての、もう極限だと思うんですね。あの高橋ひろしという先生の言葉でしょう。もう私は、お道で信心さして頂く者は、ここんところをね、ほんとにそうだと確信し持って、日常生活、いわゆる御取次を頂いての生活というものがなされてていくということになるとき、ほんとの力強い、無駄のない、充実した毎日が過ごせれると思うんですね。
御取次を頂いて起きて来た事は、人間の目では悪い事に見えるかもしれないことがあるって、けどもそれは、皆良いという結果だったとか。なら御取次頂かんでも、どんどん商売し、私いっちょんそげん御取次頂かんでもどんどんおかげ頂きよりますと、見ていかにもよかろうごたるけれども、将来、結果は皆悪いとおっしゃる。ね。御比礼に落ちてないっちいう、御比礼から漏れてるちゅう。恩取次ぎの働きから漏れてる生活ですからね。ここんところです本気で分かる、なってなければならんと思うんですけど。
今日私はそれをですね、もう、ほんとに切実に感じた事があるんですよ。今日はあの、善導寺の原さんところのあの娘さん、千恵子さん。千恵子さんのご主人が今度は初盆ですから、もちろんお里の方で、昨日初盆の、まあお祭りって言うんですかね。ほうようって言うんですか、そのお祝い、あのいとなわれましたから、そちらへ参りました。けれども、金光様の御信心頂いてわからして頂くと言う事は、もうほんとにその、お盆と言う事が、ただ、お祭りをすると、慰霊祭をするといったような意味合いにおいてなら、家族中の者が真心込めてするのですから有り難いことですけれどもね。その、( とから)御霊様が、皆、おしょうどさんがお見えになって、それを向かえて、その、迎えぎを焚いたり、提灯をたくさん下げたり、親戚、家の者が集まってお祭りをするというそこへんのところのもう、根本的なものがですね、全然観念的に違うんですよね。
金光様の信心では、それこを、身の守り、家の守り、日々その私共と共にあるといったようなその、頂き方ですけども。年にいっぺんだけ遠い所から帰ってくるとと言ったのと意味合いが当然違いますですからね。それでその、そこに意味のないものをですけれども、実際こう長年の風習っていうんですかいわゆる日本人の、特に仏教信者であった人達がそこんこつを芯に頂いておると言う事でだんだん分かっては来たけれども、やっぱ盆には提灯なっと提げにゃとか、なんかこうおごちそうひとつもせないかんとか、なんか寂しい思いがするんです。仏教の人だけがお盆だお盆だと言うてそのせんぞくがなんかしておるのに、なにもなにかこう寂しい気がするんですね。
それで前々からあの、お届をしてございましたから、その日は別に、その立ち日というわけでもなかれか、どうとも言う事ない、と言うて盆だからというわけでもないけれども、何とわなしにですね、その、御霊様の御祭りをして頂きたいという願いがあっとったんです。ね。それに、まあ私はあの、そのお祭りを仕えてからもほんとにそれを感じたんですが、その、神様にその事をお届けさして頂きましたらね、千恵子さんが、あの私ども子供の時分までは、よく女の子なんかはあの、麦、麦の刈った後々に、あの裸の( をいっぱい麦やらが置いてあってそれを)実だけをつむんですよね。そしてあの、いろんなものを編むんですよ。あの麦藁細工ですね。それであの帆立かごなんかをつくるでしょう。
お箸を十文字のようにこうして置いて、それで、こう( )巻きの様にしていってから、その帆立かごを作って。そういうね、あの情景を御心眼に頂くんですね。私はそれも思うてからもうほんとにその、いわゆる千恵子さんがね、ただただいわゆる、無い主人の、いわゆるついものに止み難いというところなん。ね。そういうじょうちょって言うか雰囲気と言う中に、今日のお祭りを奉仕さして頂いたんですけれども、あれは、蛍を入れても、けしてあれで、蛍を入れられるもんでもなかならければ、中に光った蛍が外へこう、そえるもんじゃないですよ。
蛍というのは、あれは、霊光を発するものと言う。とあの御理解頂きますように、御霊の、その霊光と言うものをですね、御霊が喜ぶとか、御霊の位がその為に進むとかといったような事には関わりは無いっち。今日お祭りは。ただあの、後に残された家内、子供がですね、亡くなった主人の霊に対してそれこそ、追捕の念やみがたい、それがなんとか、どうかしてっていう思いが親戚兄弟までに皆呼んで、今日ここで、もうそれこそ思いを込めたおごちそうを沢山作らして頂いてですね、もうお供え物なんかもそれぞれに、それこそ式年祭の時のようにいろいろ、そのお供え物をさせて頂いてからお祭り奉仕したんです。
ね。ですから、言うならば今日のお祭りはなあになっとらんっていう感じなんでしょうが。ね。ただその後に残った者が、亡くなった者に対する追捕の念が、ただ今日のお祭りの形になったんです。ね。ですから、お祭りを仕えた後にはね、それは言わばなんにも残らない空しいもの。それは丁度、あの、お盆へのようなものの、お盆会のようなものなんです。
私どもの、あのこれは私が、私同時、浄土宗でしたから信心はしとってもまだ改式はしておりませんから。もうお盆ともなると一日鬼ですもんね( は)あの庄屋さんが滞在しなさるのが。ですから、毎日毎日がそのお善部を作るだけでも大変なことでした。もう、見える前からちゃっと勿論、ご仏壇のお掃除なんかはいたしましたから、もう見える時刻になりますとね、もう、仏壇いっぱい開けて団扇持って行ってから、おう暑かったろうと言うてから、扇ぐ。扇いでその松露さんを向かえる。しかしそういう、あの、と言うことは何ともいえん、あの有り難い事だと思うですね。
松露さんが、12時なら12時に見えると。暑い盛りに見えるから、ああもうとにかくお掃除もしとこう、水もうっとこう、表にはね。そして、庭もこう水をかけておいてからそしてお提灯を点けて、そしてから団扇で扇ぐ。もうほんとに真心のこもった、ああ、その良い風習だと思いますよ。ね。そして、お盆の間は何とはなしに先祖の御霊様達が皆集まって来なさるから、何とはなしに部屋の中がにぎやかいのやって言ってから言いよった。今度またそれを送った時の後はね、やっぱあの、松露さんが来て下さったっつよね、帰らっしゃったらこげん寂しゅうなるけんと言ったようなことを言いよったのを今日思いださしてもらったんですけれども。
確かにそうです。ね。その、後は空しいものなん。この仏教での思想って言うか、考え方っていうのは。松露さん向かえる時は賑やかだけど、送った時には寂しい寂しい物だけしか残らない。今日の千恵子さんのお祭りはやっぱそうだ。ね。親戚兄弟、ね、甥、姪までも全部今日は来てから賑やかにお祭りは仕えさせて頂いたけれども、それはその、追捕の念やみがたいというのがあのお祭りの形になり、そしてお祭りを仕え終わった後は、少し何とはなしに空しいものを感じるけれども、私今日のお祭りに一つ、今一番始めに申しました、お取次を頂いて、皆良いと言う事についてのですね、実感した事は、これは私が、朝昼晩のご祈念のときに、必ずこれだけの事は申し上げる。御霊様に申し上げるんですがね。
これはもちろん、私共手続きの桂先生、ね、福岡、久留米、善導寺の御霊様達は、もう別格として礼を申し上げます。そして、まあ、私の方の大坪の家の御霊、そして家内の里の鶴谷の家の御霊。それから、ああ、私の母の家の池尻の家の御霊。それから、私の親戚、これは父の兄弟たちが六人おりますから、この家の御霊様、これだけは私が、いわゆる別格としてから拝礼をいたします。
次に、改式をなさっておられるとこの御霊様達。次には、ここの合楽教会の礎ともならしてもらえ柱ともならしてもらえ、いわゆる御霊ながらに、御霊の働きを身の守り、家の守りは言うにさらない。教会の為にも、道の為にもお働きを頂いてござる御霊の神様達ですね。言うならば、ここの教会の為に、その、言うなら、ここの礎にもなられたって言う御霊様達を全部お呼びだし、お礼を申し上げると同時に、今後ともいよいよ御霊の位が進まれ、御霊の力を受けられてです、身の守り、家の守りを言うにさらなり。ね。教会の為にも道の為にもお働きを頂く事をしっかり願うんです、私は。
そこにですね、いわゆる、まあ言うなら、ここの誰彼って言う事はいらんですよね。ここの教会の、いわゆる御大になっておられる御霊の神達。その後をここの、信者方の、もうそれこそ、いう縁の、縁のあるという限りの御霊様達の拝礼をさしてもらうんです。それに、今日は丁度、夜のご祈念にかかってのことでございましたから、夜一緒にご祈念さしていただいとりましたらね。いわいさんの御霊がね、ここの、教会の礎にもなっておられる御霊の神達の列にならんでおられることでしたよ。
ね。なるほどお取次ぎを頂いて、お許しを頂いて、結婚さしていただいておるんですからね。千恵子さん達は。だから、御取次を頂いて、お許しを頂いて結婚しておるのに、ものを言うごろにはこう言う。悲しい事になったというのではなくてです、もう、合楽教会のある限りです、ここの、こうろうの勇氏の神としてですね、あの、言うならば、はえある御霊としておかげを頂いておられると言う事が、なるほどお取次ぎを頂いて起きて来た事は皆良いということをですね、目には見えない世界の事の上にそれを私は感じましたです。ね。
ですから神様としてはもう何年後には、こういう悲しい事になるんだけども、それは、合楽の一つの礎ともなるための、言うならどうでも必要な人であった、御霊様であったと言うことになる。そう言う事がわからしていただいた御霊様のお祭りで。千恵子さん本気でひとつ信心さして頂いてね。例えば、その御霊様がひたわしゅうたまらん、寂しゅうてたまらんからお祭りを仕えるといったようなお祭りから、あの時にはこうだったけれども、現在このようなおかげを頂いてとほんとにお礼のお祭りをさしてもらわなきゃいけん。
式年、式年にゃ、御霊の位も進まれるだけの修行をなさっておられるから、私どもがやっぱりしっかり信心修行さしてもろうて、御霊の位がそれに平行して、私共の信心の位も平行して進んでいけれるようなおかげを受けなければいけんねと言うて、今日お祭りを仕えさして頂いての、後のね御理解にそんな事を申し上げさせて頂いたんですけども。確かに私共が、確信さして頂く、金光様の御信心さして頂く者が確信さして頂かなければならないことは、お取り次ぎを頂いて、起きて来た事はです、それは、悪い事でも皆良いという信念に立っての信心生活。それが、私金光様の信心さして頂くものの生活ぶんでなかならければならないと同時に、それが、私金光様の信心を頂いてる者の、また有り難さでもあるというふうに思わせて頂くですね。御取次を頂いて起きて来た事は、良い事、悪い事につけ、皆良い。御取次を頂かずして起きて来た事は、それは良い事のようにあっても、結果においては皆悪いということをね、ひとつ確信しなければいけないと思うですね。どうぞ。 ゆきこ